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「ひ孫」という名の未来が、年金通帳を追い越していく。

「孫」は親戚、「ひ孫」はもはや別の時代の住人

知人から「ひ孫が生まれた」と聞いたとき、お祝いの言葉の裏で、私は得も言われぬ衝撃を感じました。

孫であれば、まだ「かつての子供の面影」を重ねることもできます。

しかし、ひ孫。それは私から見れば、22世紀を生きるかもしれない、全く新しい時代の住人です。

自分の命から三代も離れた存在。

その圧倒的な「生命の距離」を突きつけられたとき、私たちは自分の立ち位置が、人生の舞台の最前列からいかに遠ざかったかを思い知らされるのです。

喜びという名の「終わりのない祝儀」に怯える人々

「ひ孫までいて幸せね」

世間はそう言いますが、現役を退き、年金で暮らす我々にとって、ひ孫の誕生は「永遠に続く祝儀の連鎖」の第二章の始まりでもあります。

お七夜、お宮参り、初節句: 孫の代で終わると思っていた「お祝いイベント」が、ひ孫の登場でリピート再生される。

希薄になる関係、濃厚になる出費: 正直、名前も顔もあやふやになりつつあるひ孫。

それでも「曾祖父(母)として」の体裁と愛情を、福沢諭吉の紙幣に託さざるを得ない。

愛情があるからこそ、断れない。断れないからこそ、自分の通帳の数字が削られていく。

大家族の「中心」で孤独になるか、一人で「自立」するか

ひ孫までいる家庭の頂点に立つ長老は、一見幸せそうです。しかし、その実態はどうでしょう。

大家族の中にいながら、若者たちの会話についていけず、ただニコニコと座って「お財布」の役割を果たす。

それは、実は独り身の寂しさよりも、もっと深い孤独ではないでしょうか。

独り身の私が見る、もう一つの「正解」

私にはひ孫はいません。お年玉に頭を悩ませることも、名前を忘れて冷や汗をかくこともありません。

私の9万円は、私のためにだけ使い、私のためにだけ残す。

この潔い「個」としての生き方は、ひ孫まで続く大きな家系図の「外」にいるからこそ手に入れられる、一つの誇り高い形だと思えてなりません。

結論:命のバトンを、遠くから眺める贅沢

ひ孫という存在は、生命の神秘そのものです。
でも、その重すぎるバトンを、自分の余生と引き換えに支え続ける必要はあるのか。

「私は私の代で、立派に自分の人生を完結させる」

他人の家系図の賑やかさに目を細めつつも、自分の「一人の時間」の静けさを愛おしむ。

そんな70代の過ごし方が、私には一番しっくりくるのです。

独り身のあなたが、ひ孫の話を聞いたとき感じる「チクリ」とした感情の正体。

それは、ひ孫への嫉妬ではなく、自分の「自由」への愛着かもしれません。

あなたは、ひ孫という未来を、どんな距離感で見つめていますか?

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