「今日も暇だ」と言える贅沢。60代で気づいた本当の幸せのカタチ

人生は決して楽しいことばかりではない。そんなことは、もう何十年も生きてきた私たちは痛いほど知っています。
かつて、体力が溢れ、夢や希望を追いかけていた若い頃は、「何も起きない毎日」なんて退屈で、無意味なものだと思っていました。
何かが起こること、どこかへ行くこと、誰かと競うこと。
そんな刺激こそが人生の豊かさだと信じて疑わなかったのです。
しかし、60代を過ぎ、人生の折り返し地点を優に超えた今。
私の心は、全く違う景色を映し出すようになりました。
「いつも通り」が、奇跡の積み重ねだと気づく時
最近、何より気になるのは「自分と周りの健康」です。
鏡を見るたびに増える小ジワや、少しずつ重くなる足取り。
そんな変化を自覚する世代になったからこそ、友人や兄弟が「変わりないよ」と笑ってくれるだけで、心の底から安堵する自分がいます。
しかし、平穏というものは、失って初めてその輪郭がはっきりするものです。
誰かが体調を崩したり、身近に不穏な変化が起きたりしたとき、心は一気に闇に包まれ、これまでの「何もなかった日々」がどれほど輝いていたかを思い知らされるのです。
「つまらない一日」は、守られている証拠
「今日も一日、暇でつまらないよ」 そうこぼしながら、受話器越しに友人ととりとめもない話をしたり、温かいお茶を飲みながらテレビを眺めたりする。
実は、これこそが「究極の幸せ」なのだと気づきました。
不安に押しつぶされることなく、痛みに顔をしかめることもなく、ただ時間がゆっくりと流れていく。
この「退屈」を享受できるのは、自分も、そして大切な人たちも、今この瞬間を無事に過ごせているという証拠に他なりません。
繰り返される「毎日」を、ありがたく抱きしめる
朝起きて、顔を洗い、いつもの朝食を食べる。
昨日と同じ今日を過ごせることは、決して当たり前のことではありません。
それは、無数の偶然と幸運が重なって届けられた「ありがたい(有り難い)」贈り物なのです。
何かが起きることを期待する生き方から、何も起きないことを慈しむ生き方へ。
刺激的なイベントなんてなくてもいい。 ドラマチックな展開なんて望まない。
「今日も何もなく過ごせたね」と笑って眠りにつけること。
その平穏な繰り返しこそが、人生の最後に行き着く、最高の宝物なのだと私は信じています。
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