刈っても刈っても伸びる「静かなる強さ」

春のやわらかな日差しが差し込む頃から、秋の澄んだ風が吹き抜けるまで、手に鎌を握り、あるいは草刈り機のエンジンを響かせる。
70代を迎えた私の春夏秋は、まさに雑草との知恵比べであり、静かな格闘の日々だ。
「よし、これでさっぱりした」と汗を拭い、腰を伸ばしたのも束の間。数週間もすれば、雑草は何事もなかったかのように青々とした芽を吹き返し、風に揺れている。
刈っても、刈っても、また伸びてくる。かつては「やっかいな嫌われ者」としか思えなかったその姿に、最近、ふと手を止めて見入ってしまうことがある。
この草たちの、一体どこにこれほどのエネルギーが眠っているのだろうか。
私たちはつい、人間の都合で「雑草」と一括りに呼び、邪魔者扱いしてしまう。
しかし、アスファルトの隙間や田畑の畝(うね)、道端の片隅で生きる雑草には、刈られても折られても決して折れない「生き切るための精神力」のようなものが宿っている。
大地を救う、名もなき救急隊
では、なぜ雑草はこれほどまでに必死に伸び続けるのだろう。ただ人に嫌がらせをするためでもあるまいに。
何の役に立っているのかと問いかけてみると、地球という大きな生命体の中で、雑草が果たしている密やかな使命が見えてくる。
雑草は、大地が傷ついた場所に真っ先に駆けつける「救急隊」なのだ。 雨風によって土が削り取られないよう、細い根を網の目のように張り巡らせて大地を繋ぎとめる。
根を深くまで伸ばすことで硬い土を耕し、太陽の光を浴びて生み出した生命の光を、やがて自ら枯れることで有機物として土に還す。
雑草が生え、枯れて土となり、また生える――その気の遠くなるような循環があってこそ、肥沃な大地が作られ、やがて他の植物や人間が生きられる環境が整っていく。
根さえ生きていれば、何度でも
雑草は「誰かに褒められたい」とも「役に立っていると認められたい」とも思っていないだろう。
ただ与えられた場所で、太陽を仰ぎ、雨を吸い、全力を尽くして命を全うしているだけだ。どんなに踏みつけられようが、無慈悲に刈り取られようが、愚痴ひとつこぼさず、ただ黙々と次の芽を出す。その姿は、誇り高くすらある。
70年余り生きてきて、人生には思い通りにいかないことや、挫折、喪失が何度となくあった。せっせと積み上げたものが一瞬で刈り取られるような虚しさを味わったこともある。
だが、この草たちの立ち上がる姿を見ていると、「何度刈られたっていいじゃないか」と思えてくるのだ。何度起点に戻されても、根さえしっかり生きていれば、また太陽に向かって伸びればいい。生きている限り、何度でも芽を吹けばいいのだと。
どんな環境にも屈せず、黙々と芽を出し直す雑草の生命力。そこから私は今、人生で最も大切な「諦めない心」を学んでいるのかもしれない。
終わりなき問い
生まれた時からこの歳になるまで、ずっと身近にあったこの緑の生き物。知れば知るほど、その存在の深さに呑み込まれそうになる。
草って、一体何なんだろうか。
夕暮れ時、きれいに刈り整えられた畑を眺める。やり遂げたという清々しい充実感の真ん中で、私は未だにその答えを見つけられずにいる。ただ、ひとつだけ確かなのは、数週間後にはまた青々と伸びてくる雑草の姿に、生命力の凄さを感じながら、私も今日も生きているということだ。
