「孫が来る」という知らせを聞いた瞬間の、あの弾むような喜び。そして、嵐が去った後の茶の間で、深く、深く吐き出すため息。
この二つの感情が同居することに、あなたも少しだけ罪悪感を抱いたかも知れません。
「孫を疲れるなんて思うのは、愛情が足りないのではないか」と。
けれど、70代になった今なら分かるでしょう。その疲れこそ、あなたが全力で命と向き合った証なのだと。

「来てよし、帰ってよし」孫に会いたい、でも疲れる自分を愛おしむ
カレンダーのその日に「孫」と書き込んだ時から、準備は始まります。
冷蔵庫には孫たちが好きなジュースを並べ、おもちゃの箱を引っ張り出し、シーツを洗い立てに替える。掃除機をかける手も、心なしか軽やかです。
そして当日。玄関に響く「じいじ!」「ばあば!」の叫び声。
あんなに小さかった子が、もうこんなに力強く抱きついてくる。
その温もりと、どこかミルクと太陽が混ざったような匂いを吸い込む時、「長生きして良かった」と心から思うのです。
嵐のあとの「心地よい沈黙」
しかし、現実は甘くありません(笑)。
始まった瞬間に、家の中は戦場です。
ソファはトランポリンになり、お気に入りの置物は避難を余儀なくされ、エンドレスで続く「見て見て!」の猛攻。
私たちの時代とは違う、最新のキャラクターの名前を必死で覚え、腰の痛みを堪えて這いつくばる。
あの子たちのエネルギーは、まるで無限に湧き出る泉のようです。一方で、私たちの体力は、注ぎ口の細いピッチャー。
だからこそ、夕暮れ時、車のテールランプが遠ざかっていくのを見送った後。
物が散乱し、静まり返ったリビングの椅子に「どっこいしょ」と腰を下ろした時、心からの本音が漏れるのです。
「ああ、帰ったか……(ホッ)」

「来てよし、帰ってよし」。また孫に会いたい
夕暮れ時、遠ざかっていく車の赤いテールランプを見送る。その光景は、シニア世代にとって最も切なく、そして最も「ホッとする」瞬間かもしれませんね。
あんなに騒がしかった玄関が嘘のように静まり返り、冷たい外気がふっと頬を撫でる。
車が見えなくなるまで手を振り続け、姿が消えた瞬間に、ようやく「ふぅ……」と大きなため息をつく。
この「見送る」という行為には、たくさんの感情が詰まっています。
安堵感: 「今日も怪我なく、無事に送り出せた」という責任感からの解放。
心地よい疲労: 嵐のような時間が過ぎ、ようやく自分のペースに戻れる安心感。
一抹の寂しさ: それでもやっぱり、少しだけ広くなった家の中が寂しく感じてしまう。
テールランプの赤色が闇に溶けていくのを見届けてから、ゆっくりと玄関の鍵を閉める。
その時、家の中にはまだ、孫たちが食べ散らかしたお菓子のクズや、ひっくり返ったおもちゃが残っていることでしょう。
普段なら「散らかして!」と小言が出るところですが、その時ばかりは、その散らかりようさえも「幸せの足跡」に見えてくるから不思議です。
暗くなった茶の間で、明かりをつける前に一呼吸置く。
その一瞬の静寂こそが、私たちシニアが「また明日から頑張ろう」と思える、大切なエネルギーの充電時間なのかもしれませんね。
その疲れは「全力で愛した」勲章
「来てよし、帰ってよし」
この言葉は、決して孫を拒んでいるわけではありません。
むしろ、自分たちの持てるすべてのエネルギーを使い果たして、あの子たちと向き合ったという「充実感の裏返し」なのです。
あの子たちが帰った後の静けさの中で、お茶を啜る。
さっきまであんなに騒がしかったのが嘘のような部屋。ふと見ると、食べこぼしの跡や、小さな靴下が片方だけ転がっている。
その光景を見て、疲れ果てているはずなのに、口元が緩んでしまう。
「疲れる」というのは、私たちがまだ「誰かのために体を使える」という、現役の証拠でもあります。
「ちょうどいい距離」が、一番の愛情
無理をしないことです。
「おじいちゃんは、もう30分しか走れないよ」と正直に伝え、代わりに昔話をしたり、一緒にYouTubeを見たりする時間を増やしてはどうでしょう。
無理をして倒れてしまっては、孫たちも悲しみます。
「会いたい、でも疲れる」
その本音を、自分の中で許してあげてください。
疲れるほど愛せる存在がいる。それは、人生の後半戦において、なんと贅沢で幸せな悩みなのでしょうか。
次に来る日をまた楽しみにしながら、ゆっくりと、嵐の余韻に浸りましょう。
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