隣の芝生を眺める「家族」という名の、不思議な光景

独り身の私にとって、休日に家族連れで賑わう光景は、どこか遠い異国の祭りのように映ります。
特に、孫の手を引いて「何でも好きなものを買いなさい」と微笑むおじいちゃん、おばあちゃんの姿。
それは、私には手の届かなかった「幸せの象徴」そのものに見えていました。
しかし、その微笑みの裏側にある「通帳の震え」に気づいたとき、景色は一変します。
孫が来るたび、一万円札が飛んでいく。
それは、年金だけで爪に火を灯すように暮らしている人たちにとって、実は「幸せ」の一言では片付けられない、残酷な矛盾の始まりでした。
「あげなければいい」という正論、守りたい「見栄」
他人は簡単に言います。「無理してあげなければいいのに」と。
けれど、それは当事者になってみなければ分からない、複雑な感情の迷路です。
孫に好かれたいという純粋な欲求。
「自分はまだ大丈夫だ」と思いたい、最後の意地と見栄。
そして、そのお小遣いが、実は子世代への密かな「援助」の代わりになっているという切ない事情。
財布を開くたびに、「今月の食費が消える」という恐怖が脳裏をかすめる。
それでも、孫の輝く瞳を前にして、「お金がない」と口にすることは、これまでの人生を否定するような敗北感に近いのかもしれません。
子世代の「気まずさ」と、親の「使命感」
一方で、それを受け取る子供たちの立場も、また複雑です。
「親に孫を見せたい」という親孝行の気持ちが、結果的に親の細い年金を削らせている。
何度もお金を出させることへの、喉に刺さった魚の骨のような気まずさ。
出させたくない子供と、出さないわけにいかない親。
この、どちらも悪くないはずの「愛のすれ違い」が、今の日本のお金事情と重なり合って、静かに火花を散らしています。
独り身の気楽さの、その先で
私は、自分のためだけにコーヒーを淹れ、自分のためだけに一円単位の節約をする生活を選びました。
誰かに見せるための見栄もなければ、守るべき「孫の笑顔」という重荷もありません。
この気楽さは、確かにある種の特等席です。
けれど、その特等席から隣の芝生を眺めると「孫に一万円をあげるシニア」の姿が、今では隣の芝生も青く見えません。
お金の心配をしながらも、誰かのために自分の「命の一部」を差し出す。
その滑稽で、美しく、そしてあまりに切ない「裏側の現実」を知ったとき、私は自分の一杯のコーヒーが、少しだけ苦く、そして心は少しだけ寂しく感じるのです。
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