右手が不自由になって初めて知った、不器用な「左手」の深い優しさ

私たちは普段、当たり前のように両手を使って生活しています。特に利き腕である右手は、食事をし、文字を書き、何かを掴むといった動作の主役です。
しかし、その右手が突然不自由になったとき、私は今まで意識もしていなかった「もう一方の手」の存在感に、強く心を揺さぶられることになりました。
何気ない動作ができなくなって初めて見えてきた、大切な支えについてお話しします。
「当たり前」が消えた日。不便さの中で感じた孤独
コップで水を飲む。お茶碗を持つ。ペットボトルの水を飲む。
そんな、考えるまでもなくできていた動作が、右手が使えないだけでこれほどまでに困難なものに変わるのかと驚きました。
コップを持つ程度なら、慣れない左手でもなんとかなります。
しかし、箸を使って食事をしたり、ペンを持って文字を書いたりといった繊細な動きとなると、左手はあまりにも不器用で、もどかしさに溜息をつくこともありました。
「どうして思うように動かないんだろう」 そんな不便さと向き合う中で、私の心はある変化を捉え始めたのです。
不器用な左手が教えてくれた「支える」ということ
右手が主役を張れないとき、不器用ながらも一生懸命に動いてくれるのは左手でした。
左手が右手をそっと支えてあげると、不自由なはずの右手でも少しずつ文字が書けたり、箸が持てるようになります。
右手がだめなら、左手が助ける。 不器用な左手が、利き腕である右手のプライドや役割を、静かに、そして優しく思いやる。
主役になれない左手が、主役を立てるために寄り添う姿。そこには、ただ「便利か不便か」だけでは測れない、深い「ありがたみ」と温もりが宿っていました。
夫婦も人間関係も、右手と左手のようでありたい
この経験を通して、私は一つの答えに行き着きました。
これは人間関係や、長く連れ添う夫婦関係にも同じことが言えるのではないか、ということです。
長い時間を一緒に過ごすと、相手がいてくれることは「当たり前」になり、つい欠点ばかりが目に付くようになります。
しかし、どちらかが弱ったとき、あるいは立ち止まったとき、不器用でもいいからそっと支え合う。
「一心同体」とは、単に仲が良いことではなく、右手と左手のように、一方が困難なときにもう一方が自然と寄り添い、共に一つの目的(人生)を全うすることではないでしょうか。
まとめ:左手の優しい気持ちに支えられて
不自由になって初めて気づけた、左手の存在感。 それは、私の人生を支えてくれている周囲の人々や家族の姿そのものでした。
利き腕のように目立つ存在ではないかもしれないけれど、静かに寄り添い、足りない部分を補ってくれる「左手」のような優しさ。
その尊さに気づけたことは、不自由さと引き換えに得た、私の素晴らしい財産です。
欠点を探すよりも、今そこにある支えに感謝する。
そんな気持ちで過ごせたら、これからの人生はもっと豊かで優しいものになる。私は今、そう確信しています。
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